ふるえる技術

「震え」を探求するサイト。旧タイトル「割って飲む。」

他者評価も自己評価も同じ『宗教』の仲間

 

昨日、こんな記事を読んだ。

 

okite.hatenadiary.jp 

 

個人の意見と書かれている。さらに、コメントも受け付けていらっしゃらないようだ。しかし、面白い意見に感じたので是非この記事について書かせていただきたいと思う。もし、マナー等に反しているのであれば申し訳ない。ご容赦いただきたい。

 

他者評価も自己評価も同じ「評価教」

 

筆者は、他者評価ではなく自己評価で生きろと言っている。しかし、他者評価も自己評価も同じ「評価教」という宗教の仲間だ。と、私は思っている。もちろん違いはある。他者評価教の教祖は、その場を支配する空気。一方、自己評価教の教祖は自分自身である。

 

筆者は、島田紳助氏や松本人志氏、ステーブ・ジョブズ氏などを例に話を展開されている。しかし、彼らの自己評価教は他の自己評価教と大きく違う点がある。と、私は思っている。それは、彼らの自己評価教には圧倒的な数の信者がいるということである。つまり、自己評価教の教祖として圧倒的な他者評価を受けているということになる。

 

確かに、信者よりも教祖の方が良いかもしれないが___

 

「生存者バイアス」という言葉がある。実は、わざわざ有名人に目を向けなくても、簡単に自己評価教の教祖を見つけることができる。平日の昼間の公園やファミレスなどが最適かもしれない。彼らは、実に雄弁に自らの考えを語る。しかし、彼らのほとんどには信者がいない。中には、信者が多いと錯覚してしまっている教祖も度々見かける

(ちなみに、『問題を起こす人ほど、成功する』と筆者は仰っているが、これも生存者バイアスのように感じている)

 

「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がある。確かに、1信者よりも教祖の方が良いよねという考えも成立する。しかし、牛後よりも鶏口の方が潰されやすいこともまた確かだ。自己評価教を自分自身が信じられなくなったときが、最も辛いのかもしれない。

 

自己評価教では不満足をなくせない

 

宗教の目的は、幸福になることだと言われている。が、幸せを求めるよりも不満足をなくそうとする方が現実的ではないか。と、私は思っている。そこら辺のことについては、以前記事に書いた。

 

yokoamijiro.hatenablog.jp

 

筆者は、以下のように書かれている。

他人から自分が評価されなかったらキレたり、机蹴ったりする

自己評価教では、最終的に満足を得られない、不満足をなくすことはできないのではないだろうか。もっとも、誰もそんなことは望んでいないのかもしれないのだが。

 

「評価」の枠組から抜け出る

 

私は、黒田官兵衛氏のことをよく存じ上げない。なので、知らないままに申し上げるのだが、無欲であることと自己評価が高いということは違うものだと感じる。筆者は、

他者評価を気にしない=自己評価が高い

と考えているようにお見受けするが、それは少し乱暴な意見ではないだろうか。世の中には、「評価」という枠組自体から抜け出ている人がいる。少なくとも、私からはそう見える人が周りにいる。とても少ないが。

 

最後に

 

私を含め大半の人は、何らかの思想に寄り添わないと生きていけないのだと思う。それが他者評価であろうが自己評価であろうが、評価自体でなかろうが変わらない。

今回、自己評価を思想の軸に置くことに疑問を呈する記事を書いた。しかし、これは言うまでもなく「私にとってはフィットしていないように感じる」というだけの話だ。

そして、筆者の記事に乗っからせていただいたのは、その方が自分の主張が書きやすいと思ったからという考えのみである。

平凡な結論になって恐縮だが、人それぞれ自分に合うものを見つければそれで良いのではないか。と、私は思っている。



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