ふるえる技術

「震え」を探求するサイト。旧タイトル「割って飲む。」

なぜ震えることで瞑想以上の効果が得られやすいのか

 

まず前置きとして「震えるってなんやねん?」という話から。

 

ダンスの技の1つでヴァイブレーションというのがあるのですが、私はこのヴァイブレーションを「震える」と言っています。

 

youtu.be

 

余談ですが、NELSONやHOZINといったダンサーのvibrationは特にスゴいです。

もし興味のある方がいらっしゃったら、youtubeで「nelson poppin」「hozin poppin」などで検索してみてください。

 

youtu.be

 

このバイブレーションという技を、私はかれこれ10年以上練習しています。

おかげで今では身体のあらゆるところを震わせることができるようになりました(ダンス自体は思うように上達できていないのですが。。)。

もし機会があれば、今度私の動画もアップしてみたいと思っています。

 

また私は仏教も好きで、坐禅や瞑想、マインドフルネスに関しても、非常にゆるい形ではありますが10年ほどの経験があります。

このようなキャリアを持つ私にとっては、瞑想やマインドフルネスよりもヴァイブレーションの方が効果を感じやすいため、今回その理由を書いてみたいと思った次第です。

 

ヴァイブレーションは基準が明確

 

瞑想やマインドフルネスは、身体の微細な感覚に気づくことが重要とされます。

しかし初心者にとっては特に、この「気づく」の基準がとても曖昧です。何をもって気づくと言えるのか?気づけてるような気づけてないような、そんな状態が何年も続いている方もいらっしゃるようです。そして瞑想指導者に関しても、この辺をとても曖昧な形で教えている方が少なくありません。

 

その点ヴィブレーションは、基準が極めて明確です。だって実際に身体を震わせることができるかできないかだけの話ですから。

 

ではなぜ、

身体を震わせることができている=身体の微細な感覚に気づくことができている

と言えるのでしょうか。

これは実際にやってみればすぐに分かると思います。

というのも触覚や固有覚といった体性感覚を繊細に意識できないと、そもそもヴァイブレーションなんてとてもできませんから。

例えば指先なんかは、練習しなくても簡単に震わすことができます。

でも「じゃあ指先くらいのヴァイブレーションを下腹でやってください」と言われたら……一気に難易度が上がると思います。

というかそれ以前に、そもそも下腹自体を意識できない方も多いのではないでしょうか。

 

そうなんですよね、私たちはあたかも当然のごとく自分の身体全体を意識できていると思い込んでいますが、実際は全くそんなことはないワケです。全体どころか、ホンの一部しか意識できていない人も少なくありません。

でもソリャそうですよね。だって我々の日常に振り返ると、毎日似たような姿勢しかとらず、同じようなものにしか触れていないのですから。身体の一部しか意識できなくても私たちの日常は問題なく成立するのです。

 

ほら「体幹」という言葉があるじゃないですか。体幹トレーニングなんかは、ここ何年かで一気にメジャーになりました。でも体幹のトレーニングがここまで流行るというのは、裏を返すと我々が普段いかに体幹を意識できていなかったのかということに繋がるのではないでしょうか。

 

ちなみにこの「基準が明確」という点では、ヴァイブレーションはヨガと似ていると思います。ヨガのポーズは、十分に身体を意識できないとダメだろうし。まあそもそも、ヨガ自体が瞑想状態に入るために開発されたものとも言われているので(坐禅も1つのポーズだったという説があります)、当然っちゃ当然の話なんでしょうが。

 

言い訳をして終わります

 

最後に言い訳を。

多くの瞑想指導者が「気づく」の基準を曖昧にしてしまっていると書きました。ただ彼らが曖昧にしているのはわざとであって、もちろんちゃんとした理由があることも、ハッキリさせることの弊害についても、一応私は理解しているつもりです。

私の場合、精神的なものはあまり関係がなく、あくまでほぼ「身体技術」の結果として瞑想状態がもたらされると考えているため、このような書き方になっております。予めご了承くださいませ。

 

 

「鬱を一発で治す方法」を10年以上実践している私がその効果を書いてみる

 

先日こんな記事に触れた。

 

【朗報】鬱を一発で治す方法、ついに見つかるwwwwwwwwwwww - 思考ちゃんねる


要約すると以下のような内容だった。

 

単純なまとめ
・生活に支障がないレベルで左右の利き手を逆転させる
・生活スペースの身の回り品の配置を左右逆転させる

狙い
些細な無意識行動を意識して右脳を使うこと
右利きの人は今まで以上に右脳を使うので更に効果あり

 

私もこの「左右の利き手を逆転させる」という方法をカレコレ10年以上実践している。そして精神的に効果のあるものだと実感している。

ただコノ記事に書かれている「精神的に良い理由」が、私の考えているものと違うため、書いてみようと思ったのだ。

 

触覚を知覚しやすい

 

左右の利き手を逆転させると、利き手よりも格段に触覚(を始めとする固有覚などの体性感覚)を意識しやすい。そしてコレって実は瞑想(ヴィパッサナー瞑想)の方法と似ている。

 

マインドフルネスや瞑想を少しでもかじったことがある人なら分かると思うが、マインドフルネスや瞑想では身体の微細な感覚に気づくことが重要とされる。

なぜコレが大事なのか。

身体の微細な感覚に気づいている間は、脳がお留守になって「思考」がストップするからである(大雑把に言えば)。

特に精神的に弱っている方の思考は「妄想」に寄る傾向がある。

そんな止まらず膨らみ続ける妄想を、一旦ストップしてくれる効果があるというワケだ。

 

「右脳左脳」というプラシーボ効果

 

「左手を使うと右脳が刺激されるというのは真っ赤なウソ」

という意見がある。

ココら辺の話は私には分からないが、もし「右脳左脳」というのがウソであったとしても。この「右脳左脳」を信じている人には、プラシーボ効果的なものがあらわれやすいのだろう。

 

つまり

 

一旦思考をとめる

思考がとまっている隙に、「大丈夫。勝手に悩みだす左脳はとまって今は右脳が働いてくれている」という価値観を入れ込む

 

という図式である。

ちなみに私は大学時代、洗脳について勉強をしていたのだが、洗脳の仕組みはまさにこんな感じだった。

 

上の記事で鬱が治ったと書いている方は、こんな感じで自己洗脳を行っているのではないだろうか。

 

瞑想における「物語論」への違和感を魚料理にたとえて説明したい

 

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ミャンマーの著名な僧侶であるウ・ジョーティカ氏は、このように仰っています。

 

 

「普段われわれが現実だと思っているのは、実は物語の世界である。そして瞑想を深めることによって、本性が見える」

という話は、仏教関連の方々からは結構よく聞くもので、全体的には私も同意です。

 

ただそのニュアンスみたいなところに、以前から違和感があったのです(まあ畏れ多い話なのでしょうが)。

で、どうにかウマいこと説明できないものかとユルく考えていたのですが、最近1歳の息子を眺めながら「物語論の違和感って、魚料理に喩えればうまく言えるんじゃないか」と思いついたんですね。

なので一度書いてみようと思った次第です。


ほとんどの人は「生魚」を知らない


我が家の朝ごはんには、鮭の塩焼きがよく登場します。

当たり前の話ですが、この「鮭の塩焼き」って調理をされたものです。ザックリ言えば鮭という魚を切って、火で焼いて、塩という調味料で味付けしたものです。

 

我々大人にとって、ごく当たり前のこの事実……なんですが、でも1歳の子供にとってはどうでしょうか。

食卓に置かれる鮭の塩焼きを見つめる我が息子の目には、鮭の塩焼きは鮭の塩焼き以外の何者にも映っていない。ですよね、きっと。

鮭の塩焼きが調理されたものという発想はどこにもないハズです。


「そりゃ1歳の子供だから当然だよ」という話なのですが、コレと似たようなことって、私たち大人もやっていませんか?感情や思考に対して。


五感という言葉があるように、人は目や耳や鼻や口や肌で得た感覚を脳で知覚します。そしてそれが、感情や思考につながります。

なのでもし「感覚」が鮭という魚ならば、「感情」や「思考」は、鮭の塩焼きのように脳内で調理されたものになります。

しかし「鮭の塩焼きは鮭の塩焼き以外の何者でもない」と1歳の子供が感じるように、私たちは、自分の感情や思考はソレ以外の何者でもない、リアルガチなものと思ってしまうワケです。

つまり私たちは、鮭の塩焼きという「感情」や「思考」を目の前にした途端、生魚の鮭という「感覚」の存在をふっと消してしまっているのです。


「生魚」を知ることが瞑想


「瞑想って何なの?」という疑問をよく耳にしますが、この鮭の塩焼きの例で言うならば、私は以下のようなことだと思っています。

「瞑想とは、生魚の鮭という感覚の存在を知ること。そして鮭の塩焼きという自分の感情が、鮭という魚が焼かれ、塩という調味料が足されたものだというのが分かること」

 

塩という調味料は、例えば自分の過去のトラウマみたいな強烈な記憶なのかもしれません。焼き加減についても、例えばあなたがすでに別のことが原因で不機嫌な状態であれば、生鮭を目にした瞬間に強火で黒焦げにしてしまうことだってあるかもしれません。

 

そう考えると瞑想で得られるのは、決して大層なものではなくて「ただそれだけのこと」とも言えると思うんですよね。

 「ただそれだけのこと」なんて書き方をしたのは、熱心な瞑想修行者の方々をバカにしたいからではありません。

ここで最初のウ・ジョーティカ氏のツィートに戻りますが、瞑想体験者の中には「物語の世界はくだらない」という、ある種極端な思想にまで飛んでしまう方が、少なくない割合でいるように私は感じているのです。

そりゃ「我々の日常は物語というフィクションに過ぎず、本質的な部分は別にある」という実感を強く持ってしまうと、そのような価値観に行き着くことはさほど不自然ではないですよね。

 

まあ確かに刺し身ってウマいじゃないですか。生の魚は実にウマいんですよ。

「あー魚って生で食うとこんなにシンプルでウマいのか」と感動する気持ちも分かりますし、現に私もそう感じる1人です。

でもだからといって刺し身を食べたことがない人がくだらないかと言うと、もちろんそんなことはないですよね。

だからコレ系のディスは「えー、魚なんて刺し身で食うのが一番ウマいに決まってんじゃん。この味を知らないなんてホント可哀想だね」というオッサンの発言と、本質的にはあまり違わないのではないかと思うのです。

マインドフルネスは「気づき」と訳されるじゃないですか。そうなんですよね。ホンの少しの気づきの差に過ぎないと私は思ってるんですよ。

 

悟りの極地は魚をそのまま食うこと?!


ちなみにということで、ここで私自身の話をさせてください。

 

現在の私の瞑想の深さは、刺し身がめっちゃウマいことは分かっていて、鮭の塩焼きが鮭という魚からできていることも、焼かれて味付けされていることもなんとなく分かっている。

しかし毎回うまいこと焼けるのかといえば全くそんなことはなく、気づいたら丸焦げにしてしまっていることも(以前と比べればはるかに減りましたが)。塩をふりすぎたり、誤って砂糖をかけてしまうことだって往々にしてある。そんな感じです。

 

せいぜいその程度の深さなので、ココから先はあくまで私の妄想になってしまうのですが、もっと瞑想を深めている人というのは、鮭を鮭のまま切らずに焼かずに、醤油もわさびも何の味付けもせず、丸ごと自然に食べられる方なのではないかと私は思っています。

瞑想を深めると、あらゆるものが光の塊に見えたりとか、音楽が個別の音にしか聴こえないみたいな話を聞きますが、コレはまさに魚そのものなのではないかと思うのです。

 

私にはそのような体験はありません。残念ですが。でも少なくとも今の私にとっては、そこまで至らなくてもいいのかなと思ったりもしているんです。まあもちろん興味はありますけどね。

 生魚といっても、やっぱり刺し身程度には調理されていて欲しいし、醤油やわさびも欲しいです。

確かに、いつの間にか魚を焦がしてしまうこともままありますが、まあよほどじゃない限りはそこそこ美味しく食べれる自信はあります。塩をふりすぎたときだって他の調味料で調整したり、「コレだけ味が濃いとご飯がススむね」なんて考えもできるかもしれません。

 

「瞑想をすると創造性が失われるのではないか問題」というのがあるじゃないですか。音楽家の方が瞑想を深めて音を連続で聞けなくなった結果、作曲ができなくなってしまったみたいな話です。

アレはもしかしたら、いつも生魚ばかり食っていて逆に調理の仕方を忘れたんじゃないかとも思っているんですよね。

「気がついたら焼きすぎて焦がしちゃった」と真逆の話で、「あれ?!『焼く』ってなんだっけ?」みたいな。まあソレこそ私の妄想に過ぎないので、ホントのところは分かりませんが。


苦しみに見合う瞑想の深さで良いのではないか

 

苦しさや不満足感って、個々人によって大きく違いますよね。

私にも耐え難く苦しいときがあったのですが、でもそれは刺し身の味と、自分の感情が調理されたものであることに気づく程度で解消されるものだったんだなと思います。

いやもちろん今後は分かりませんよ。もしかすると想像を絶するような苦が待っているのかもしれません。

 

なので、見る人によっては私など存分にあまちゃんなのでしょう。

でも少なくても現状においては、焼きすぎたときには相応の対処をしたり、基本は刺し身の旨さを知りながらも「たまにはジャンクフードもいいんじゃない」といったバランスを保つことの方が、むしろ健全なのではないかとさえ感じています。ほらタルタルたっぷりのフィッシュバーガーとか最高にウマいじゃないですか。

 

あとコレも私事ですが、子供が生まれてからは、今まで一度も味わったことのないような感情が度々やってきて、どうなんでしょうか、コレはミシュラン三つ星の料理といったところなのでしょうか。そういった感情も当然ながら素晴らしいことだと思うワケです。

 

瞑想難民には生魚が見えていない?


1つ書き忘れがあったので最後に付け足させてください。瞑想難民の方々についてです。

「瞑想難民とは?」をザックリ言うと、瞑想することで逆に悪影響が出ている方々のことと私は解釈しているのですが、コレについても鮭の塩焼きで説明してみたいと思います。

 

瞑想難民の方々が陥っている罠は、鮭の塩焼きを見て「鮭の塩焼きだ」と延々感じようとしているところにあるのだと思っています。

私としては、鮭の塩焼きを見た場合、それが鮭という生魚からできていること、焼かれていること、塩で味付けされていることなどを知ることが大切だと思うのですが、その観点が抜けている気がするんです(どうしたら観点を実感できるのかということについてはまたの機会に書いてみようと思っています)。

 

たとえ鮭という魚がどんな魚か分からなくても最初は良いと思います。焼くということや味付けされるということがどういうことかハッキリ分からなくても最初は良いのだと思います。ただ「鮭の塩焼きが鮭の塩焼き以外の何者でもない。なんてことはないんだ」という実感を得ることが大切なのではないでしょうか。

 

今度こそホントに最後に

 

すみません、もう1コ忘れてました。コレがホントの「最後に」にしますね。

今回の記事と似たようなことを、実は以前にも書いたことがあります。

 

yokoamijiro.hatenablog.jp

 

このときは人の身体を会社組織に喩えました。

で今回料理に喩えてみて思ったのは「人間って人間みたいなものを作るのが好きなんだな」ということです。

 

いやサルも立派な組織を作りますし、ヒグマも肉を熟成させるらしいので調理と言えるのかもしれません。

でもどちらも人間ほどは複雑じゃないですし、本人たちに聞いてみないと分かりませんが、きっと複雑にすること自体そんなに好きじゃないですよね。

対して人間はというと、複雑な組織や複雑な料理を好んで作るじゃないですか。

まあそんなこんなで「人間ってホント人間なんだな」とSO WHAT?的なことを書いて締めたいと思います。

 

最後までご覧くださいまして、誠にありがとうございました。

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